Vol.12_挑戦に踏み出すコツ

今年のゴールデンウィークでは、奈良県山添村にある「ボウケンノモリ ヤマゾエ」を訪れました。

ボウケンノモリ ヤマゾエは、木々に囲まれた山の中に設けられたアスレチック施設で、木登りやロープ移動、ジップラインといったアクティビティを楽しめる場所です。ハーネスを体に装着し、木を登り、張り巡らせたワイヤーを伝いながら、空中を移動し、最後はジップラインに乗って次の場所に移動していきます。体験型アドベンチャー施設としては本格的で、子どもから大人まで幅広く楽しめるように設計されています。

訪れた5月3日(土)は連休中でもあり、多くの家族連れやパーティが訪れていました。私たちが参加したのは「チャレンジコース」という難易度中程度のコース。事前予約が必要で、当日は20人程度が一つのグループで順番にコースを回っていきます。

こんな場面がありました。インストラクターによる簡単なレクチャーが終わって順にスタートするのですが、その初っ端であるコース1での出来事。6歳くらいの男の子が、ぐらぐら揺れる踏み台をロープを伝って、木から木へ移動し、ようやく到着したジップラインのスタート台。そこでじっと立ち尽くしていた場面です。落下しないように安全器具はしっかり装着しており、あとはそれに身をゆだねて、空中に飛び出すだけの状態。でも、どうしても台から一歩が踏み出せない。下から見守る母親は「何も考えずに飛んできて!」「後ろの人に迷惑かかってるから、早くして!」「目をつぶって降りて!」など、何度も声をかけていました。

私たちだけでなく、順番を待つ数組の家族連れなど周囲の空気は穏やかでした。誰も急かす様子はなく、「まあ、わかるよな」「最初は怖いもんやで」といった雰囲気が静かに流れていました。こういった場面を通じて、私はあらためて「人が挑戦するときに何が必要なのか」について考えさせられました。

プレッシャーは本当に悪者なのか?
心理的安全性(Psychological Safety)。この言葉を広めたのは、1999年にハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・C・エドモンドソン教授が発表した論文です。そして2015年にGoogleが「成果の高いチームに共通しているのはスキルの高さでもリーダーの優秀さでもなく、メンバー間の“心理的安全性”である」ことを発表したことで、現代のマネジメントや人材育成の分野では心理的安全性が一躍脚光を浴びるようになりました。特にコロナ禍でリモートワークが常態化したこともあり、「顔が見えにくい中で、いかに人の声を引き出すか」「失敗を恐れずに動けるか」という課題に向き合う企業が増えたことも、追い風となりました。

この概念自体はまったくの新発明ではなく、私たちが昔から大切にしてきた「風通しの良さ」や「安心して話せる雰囲気」のことであり、失敗しても否定されない文化。確かに、それがなければ人は委縮し、創造性も行動も生まれません。その一方でこういう言い方もよく聞きます。「プレッシャーをかけすぎると人が壊れる」「プレッシャーのない職場が理想」といった主張です。

しかし、私はこの考えに違和感を覚えます。プレッシャーがすべて悪だとしたら、人はいつ、どうやって前に進むのでしょうか。あのジップラインの少年も、誰からも声をかけられなければ、いつまでも一歩が出なかったかもしれません。声かけの内容やトーンは別として、「やってごらん」「大丈夫だよ」と伝える行為には、少なからず“背中を押す圧”が含まれています。

つまり、プレッシャーは一概に悪ではなく、かけ方や意味づけ次第で、むしろ人の行動を促す力になりうる。ここでは“心理的プレッシャー(チャレンジ・ストレッサー)”という言葉で、それを肯定的に捉えていきたいと思います。

プレッシャーには“質”がある
実はこの視点、心理学や組織行動学の分野でも裏付けられている考え方です。

たとえば、Lepineら(2005)の研究では、ストレスを「チャレンジ・ストレッサー」と「ハインダンス・ストレッサー」の二つに分類しています。前者は成長や達成に繋がるプレッシャー、たとえば目標や責任感といった前向きな緊張。一方で後者は、理不尽な業務量や不公平な扱いなど、行動や成長を阻害するタイプのプレッシャーです。

また、ストレス理論で有名なカナダのハンス・セリエによれば、ストレスには「ユーストレス(良性ストレス)」と「ディストレス(悪性ストレス)」があるとされています。ユーストレスは、適度な緊張感によってモチベーションや集中力を高める良いプレッシャー。ディストレスは、過度で耐え難く、心身に悪影響を及ぼすものです。ストレスは完全に排除するものではなく、適度に管理することが大切だとされています。

さらに、ハンガリーの心理学者であるミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー理論」において、挑戦と能力のバランスがとれたときに、人は没頭・集中の状態に入れるとされます。挑戦が簡単すぎると退屈に、逆に難しすぎる挑戦だと不安になる。つまり、人が“ちょうどよく動ける”状態には、適度なプレッシャーが必要という話です。

プレッシャーが人にどう作用するかは、その“質”と“状況”によって大きく変わります。だからこそ、「心理的プレッシャー(チャレンジ・ストレッサー)」を悪者にせず、その使い方と意味づけを見直すことが、今の時代には求められているように思います。

心理的安全性が高ければすべて良いのか?
ここで、心理的安全性と心理的プレッシャーの関係を整理してみます。
縦軸に「心理的安全性」、横軸に「心理的プレッシャー(チャレンジ・ストレッサー)」をとったとき、以下のような4象限に分けることができます。


つまり、プレッシャーは“悪”なのではなく、「安全性とセットで存在することで初めて健全に機能する」と言えるということです。
ではそれぞれのゾーンについて、「当事者に何を与えているのか」および「どんな組織・人が該当するか」という観点で掘り下げていきましょう。

① ゆでガエル:過保護な温室状態(安全性が高く、プレッシャーが低い)
ここのゾーンでは我々に「快適な安住の場」を与えてくれますが、それは現状維持の安堵にすぎず、自ら動く必然性や刺激には乏しい状態。周囲からの期待も関心も薄く、「いてもいなくてもいい存在」になってしまうゾーン。誰にも声をかけられず、独り言のように仕事をする感覚。背中も押されず、支えられもせず、ただ“そこにいる”だけ。組織で言えば、過去の成功体験にあぐらをかいてしまった状態や誰も新しい施策に手を出そうとせず、挑戦や工夫はほとんど見られない状態です。

② 覚める水風呂:放置された真空状態(安全性もプレッシャーも低い)
ここのゾーンでは我々に「一種の自由と裁量」を与えてくれますが、外的な制約もなければ、内的な動機づけも生まれず、本人の存在や努力が認知も評価もされないまま、ただ時間が過ぎていく状態です。誰も助けてくれない、関心を持ってもらっていない状態とも言えます

例えばバックオフィス部門の契約社員。正社員から声もかけられず、雑用しか任されない。ミスをしても特に指摘もない代わりに、何かを改善するようなチャンスも一切ない。「ここにいても成長しないな」と感じながら、毎日同じ作業を繰り返す。「何かあったら聞いて」と言われたまま、1週間まともに話しかけられない。職場にいる意味を感じられず、時間だけが過ぎていく、そんな状態です。

③ 焼けた鉄板:過熱型熱湯風呂の状態(安全性が低く、プレッシャーが高い)
ここのゾーンでは我々に「行動を促す発破や励まし」を与えてくれますが、結果を出すことが唯一の存在意義となり、失敗に対する許容や支援がない中で、個人は“挑戦を見張られている感覚”に支配され、萎縮と自己防衛に陥る感覚になります。高い目標を課せられているにも関わらず、ミスや失敗が許されない環境。発言すれば責められ、挑戦すれば叩かれる。そんな職場やチームでは、誰もリスクを取らなくなり、守りに入り、やがて思考停止に陥っていきます。

例えば、大手企業の企画部門。全社会議で「この内容、経営に出すから完璧にして」と言われ、直前で3回も構成を変えられる。フィードバックは「これじゃ通らない」「こんなの通すわけにはいかない」と否定のみ。誰も「一緒に練り直そう」とは言わず、責任だけが降ってくる。「発表の質を上げろ」と言われながら、相談できる相手もいない。成果へのプレッシャーはあるが、心理的な支えはない。こうなると人は“委縮と保身”に向かい、思考停止に陥ってしまいます。

④ 鍛えるスチーム:成長促進や整いを感じさせる適度なサウナの状態(安全性が高く、プレッシャーも高い
ここのゾーンでは我々に「手が届く未来イメージ(視点と期待)」を与えてくれます。支えがあり、見守られているという感覚の中で、意味のある目標や挑戦が設定されている状態です。信頼されている実感があり、自分の力で一歩踏み出す勇気を持てる。部活動での自主練文化や、任せながらも見ていてくれる上司の存在などが、このゾーンに該当します。

プロジェクト型の現場で「3日でアイデアを出して」と依頼された後、「どんな案でもいいからまず出してみて。ブラッシュアップはあとで一緒にやろう」とフォローされます。ミスや試行錯誤が前提となっており、挑戦すること自体が評価されていきます。

「飛び出す一歩」を支えるもの
さてジップラインを前にして足がすくんでいた少年は、どうやって一歩を踏み出したのでしょうか。“エイッ”と覚悟を決めて降りるのかな、と見ていたら、着地点にいたインストラクターがなんとジップラインのワイヤーを伝って登って近づいてきたのです。本来のジップラインの使い方はそうではありませんが(笑)、少年がいる台に到達した後、少年の横に立ち、言葉少なに何かを囁き、着地点の方を指さしました。

そのあと、その少年は徐々にですがゆっくりと装置に体重を預けるようになり、ついに着地点に向けて飛び出したのです。

親・兄弟からあれほど長時間声をかけられていたのに、あっさり一歩を踏み出すことができたのは、少年の心の中で「ここを抜けた先に、何があるのか」がわかったからではないでしょうか。その少年に聞かないと真相はわかりませんが、その後のいくつかのコースでのジップラインでの降り方を見る限り、“嫌々降りた/あきらめて飛び降りた”ようには思えないのです。彼にとっての“未知”が“予測可能な道筋”へと変わった。心理的なブレーキが少しずつ解除されていったように感じました。

「見えない未来」を「手が届く未来」へ
この出来事から私たちが学べるのは、「人は、“どう進めばいいか”が見えないときには、動けない」ということです。着地点は見えていても、”そこにどうやって届くか””そこまでどう動いていくか”が分からなければ、人はその場に立ち尽くしてしまうのです。

けれども、「手が届きそうな未来」が見えたとき、人は自分の意志で一歩を踏み出せます。例えば、北海道日本ハムファイターズの新庄剛志監督は、就任初年度の会見で「優勝なんて目指しません」と宣言しました。これは、優勝という“自分でコントロールできない目標”にとらわれるのではなく、「全力でプレーする」「見ていて楽しい野球をする」という“自分の意思と努力で手が届く未来”に目を向けさせるための発言です。選手たちに“自分ではコントロールできない壮大な夢”を背負わせるのではなく、“自分の行動で変えられるプロセス”に目を向けさせる。この視点の転換が、選手たちに挑戦する勇気と自律的なプレーを引き出し、結果として今年度は優勝も期待されるチームへの成長と成果につながっています。

プレッシャーを“悪者”にしない社会へ
子どもたちが挑戦する姿を見ると、大人の私たちがいかに「見えないプレッシャー」を感じ、勝手に人の目を気にして、躊躇しているかに気づかされます。

でも、逆に言えば、プレッシャーを“敵”としてではなく、“光”として扱えるようになったとき、人も組織も、もっと自然体で前に進めるのではないでしょうか。「自分の意思や努力で手が届く未来」に視点をスライドさせることで、人は“動けるようになる”。

「安全に支えられている」「ちゃんと見守られている」「そして、自分が進む道がほんの少し見えた」 この3つの感覚がそろったとき、私たちは前に進む力を自ら手に入れることができ、未来の新しいジップラインに挑めるのだと思います。

安心だけでも、プレッシャーだけでも足りない。両方がそろったとき、人は本当に自分の力で、挑戦に踏み出すことができるのです。

あの日、インストラクターが登ってきて、少年の隣に立ったように、プレッシャーを“悪”ではなく、“未来を照らす灯り”として扱える関わり方こそが、これからの社会に求められているのかもしれません。