Vol.28_「なるほど」で止まる人、「やれる」に進む人

“分かったつもり”とは何か?
「なるほど」と思った瞬間に、私たちはしばしば危うい錯覚に陥ります。

例えば、料理。スマホでレシピを調べると「玉ねぎをきつね色になるまで炒める」と書いてある。これを読めば、“料理は分かりやすくて簡単だ”という気持ちになるようです。けれど実際にやり始めると、「どの色味で火を止めるのか」「強火と中火で甘みの出方はどう違うのか」と戸惑い、思い通りの味にはなかなか仕上がらない。

英語学習だとどうでしょう。「毎日音読するといい」というアドバイス。これを聞けば、「なるほど」と納得するでしょう。ですが「なぜ音読がリスニング力につながるのか」「どのくらいの音読量が効果的なのか」と聞かれれば、明確に説明できないことが多いでしょう。

もう一つ。社内会議で上長からの「課題の本質を押さえろ」という謎の指摘。よく考えてみると「課題と課題の本質っていったい何が違うの?」「それをどう資料に落とし込むのか」と問われると、思考が止まる人は少なくありません。

こんな錯覚、どこかで遭遇したことはありませんか?

これらの例に共通するのは、言葉としては理解した気になるものの、確認の問いを投げられると一気に怪しくなることです。
すなわち、理屈を知ることと、実際にできることの間には大きな溝があることを示唆しています。

では、どこまでできれば「分かった」と言えるのでしょうか。今回はこのテーマを取り上げます。

「分かる」にもいくつか段階がある
「分かる」にもいろいろなレベルがあります。一度整理してみましょう。
下図のように、Level1=知っている、Level2=説明できる、Level3=質問に答えられる、Level4=実際にできる、の4つの段階に分けることができます。



多くの場合、私たちはLevel1やLevel2で「分かった」と思い込んでいます。けれど、Level3以上に到達しなければ、知識は血肉(知恵)になっていきません。

野球の例が分かりやすいと思います。フォークボールを打ちたい。そのコツは「ボールが急激に手元で落ちる前に打つこと」と言われます。理屈としては明快ですが、「どの瞬間が落ち始める前なのか」「どうやって見極めるのか」と問われると、狙ってバットに当てることができる人はごくわずかです。

まさにそうです。理屈を知っても、バットは自然には出ません。
そして、この“分かったつもり”の構造は、AIの時代にさらに強まっています。

AIが生む新しい錯覚
AIは瞬時に情報を整理し、もっともらしい答えを提示してくれます。
それに触れた私たちは、「なるほど、自分も理解した」と思い込みます。
しかし、それはあくまでも言葉の形をした“仮の理解”です。自分が考えたのではなく、借りてきた思考を自分の理解と錯覚しているにすぎません。

すなわち、考えることをやめ、AIに依存する。

これはまさに「分かったつもり」の現代版といえるでしょう。厄介なのは、それを「伝える」段階においても思考放棄になってしまうことです。

自分とAIの役割を分けることの大切さ
AIの力は、異なる考え方や思考回路を持つ人同士が本音で早く繋がる“橋の役割”として大きな価値があります。曖昧さの削減、スピード、コスト。意思疎通の摩擦を減らす力は確かです。

そのためには、言葉にする前の作業、すなわち「相手に何を伝えるのか」「どの前提で話すのか」「どんな順序で組み立てるのか」。
これらを整える必要があります。

私たち自身の思考や理解が曖昧な場合、相手(AI)には正しく伝わりません。すべてをAIに任せれば、相手に届くのは“借りものの言葉”でしかなくなります。
AIからの回答を読んでみると、”思っていたのと違う”という信頼感が下がる感情が残ることがありませんか。AIがどれほど優秀な伝える力を持っていたとしても、AIは人間と人間をつなぐ橋でしかありえません。全体の地図(考えの構図や論理・伝達の流れなど)は自分自身が描くべきなのです。

これに対する確認の問いは下記です。
「私が伝えたいのは“結論”だけか。前提・判断基準・比較対象は言語化できているか。その順番は、相手の文脈でも通用するか。」

AIからの様々な提案は私たちの理解力・思考力をブーストさせるきっかけとしては大いに役立ちますが、コンテキストと責任は人間側にあります。昨今AIリテラシーの重要性が叫ばれているように、考える(構造化)と伝える(表現・翻訳)を分けて設計する。これがAIを「良い道具」に変える使い方です。

これからどうすべきなのか?
何となく“分かったつもり”を超えて、自らの経験まで落とし込みながら前に進んでいくためには何が必要なのでしょうか。3つの視点「やること」「変えること」「やめること」で捉えてみることをお勧めします。


真の“分かる”になるために
料理のレシピを読むだけでは、美味しい一皿にはなりません。
フォークボールの理屈を知っても、打席に立てば通用しません。
英語の学習法を理解しても、実際の会話は別の難しさを伴います。

これらはすべて、「分かったつもり」の危うさを示しています。

AI全盛の今、私たちはますます“理解した気分”を得やすくなります。
しかし、その気分は知識と行動の間の距離を縮めてはくれません。
目や耳で得た知識。それが自らの経験を通して血肉となり、知恵に変わる。これが本来の”腹落ち”なのではないでしょうか。

「なるほど」で終わらせず、「問い直し」「言い換え」「小さな実験」を繰り返すことで初めてその距離を埋めることができます。

今こそ、「分かったつもり」を破る習慣を怠らず、日々の学びと仕事に仕込みなおしていくこと、これが大切ではないでしょうか。