Vol.7_窮屈な自由

最近、自分の会社の名刺を新しく作る機会がありました。
いくつか案をつくり、「どれも悪くない」と思っていたはずなのに——なぜか、決めきれない。
周囲に「どれがいいと思う?」と聞いてみても、返ってくる答えは見事にバラバラで、誰もがそれぞれの視点から「こういう名刺が良いよ」と正しさを語ってくれる。
それがありがたくもあり、同時に、どんどん自分の軸がブレていくような感覚もありました。

結果的に、みんなのアドバイスを反映しようとしたデザインは、「角が取れて」「無味無臭」なものに……。
「どれもいい」はずなのに、どれにも決められない。
それが今回のテーマです。

選択肢は増えたのに、なぜか“自由に”選びにくくなった

昔よりも、私たちのまわりには圧倒的に多くの選択肢があります。情報もモノもサービスも、どこにいてもスマートフォンひとつでアクセスできる。「何でも選べる時代になった」と言われるのも納得です。しかし、選べるようになったはずなのに、どこか「選びにくさ」を感じることが増えていませんか?

たとえば、「よいものがあれば買おう」というスタンス。一見すると前向きで自由な選択をしているように見えますが、実際にはなかなか決められず、結局買わなかったり、買ったあとに後悔してしまったり。選択肢の良し悪しもあるかもしれませんが、実は「選ぶ側の意思の薄さ」のほうが問題のように感じる部分があります。

意思の情熱と理屈の納得感

人が何かを選び、動き出すとき、そこには「やりたい」という情熱と、「やるべき」「できる」という理屈の納得感が必要です。前者を情熱(Will)、後者を理屈(Must/Can)と呼ぶなら、このバランスが整っているとき、人は迷わずに進めます。しかし近年、そのバランスが崩れていると感じる場面が増えています。意思が弱く、納得感が薄く、だからこそ行動に踏み切れない。その状態が「これでいいのかな…」という立ち止まりを生んでいるのではないでしょうか。

「違和感」を生むようになった社会の変化

少し前まで当たり前だったことが、今では違和感を持たれるようになっています。たとえば新入社員が入社数日で退職する話。以前であれば「まずは3年がんばってみよう」というのが常識でしたが、今は「合わないならすぐ辞めるのもあり」と受け止められる風潮もあります。

また、上司と部下の関係性にも変化が見られます。上司が若手に気を遣いすぎて、まるで“友達のような”距離感になっていたり、部下の反応を恐れて指導を避けたりする場面が増えました。

SNS上では「これが正しい」と断言する声があり、一方で「間違ったことを言えば叩かれる」という空気が蔓延しています。「空気を読むこと」は、かつては”場を整える力”として評価されていましたが、今では”忖度する力”が悪い意味、後ろ向きな行為に捉えられがちです。

消極的な正しさが、組織目標の空洞化を招く

視点を変えましょう。企業の目標設定を見ても、気になる点があります。
「〜を推進する」「〜をサポートする」といった、目的や成果が不明確な表現が多く並び、ToDoリストのように細かい作業が羅列されていること。しかも、どれも“全部やる前提”で、優先順位が見えないのです。

一見すると「間違っていない」目標に見えますが、裏を返せば「突っ込まれたくない」「反論されたくない」からこそ設定された、ある種の“守り”の正しさ。
つまり、“消極的な正しさ”がにじみ出た目標にも見えてきますが、皆さんはどう感じますか?

こんな問いかけをご紹介しておきます。
「結局、今年度末に、現状がどういう状態に変わっていればいいのか」
「今年度中に絶対に達成しないといけないものはどれか?」
「今年度やることではなく、どの目標や課題をどのレベルまで達成したいのか?」

──そんな問いに答えられる組織目標が、どれだけあるでしょうか。これは意思(Will)と理(Must/Can)が分離したまま、整合のないままに作られた目標の典型です。

比べてみると見える「過去」と「今」の違い

10年前には、選択肢は少なくても「これが正しい」「こうしたい」という意思が強かったように思います。「できるかできないか」よりも、「やるかやらないか」が判断軸になっていました。今はその逆。情報が多く、選べる分、「どれも正しく見えてしまう」。だから「決めきれない」。

結果、かつては「これがいい!」と手を伸ばしていたものに対して、「これでいいのかな…」とつぶやいて立ち止まるようになった。選択肢が増えたことで、自由が広がったはずなのに、その自由がかえって決断の重さを増しているようにも感じます。正しさを押し出す声が強くなったのに、社会全体としては慎重になり、ある種の“行き詰まり”すら感じます。

フラットに見れば、両方に理由がある

たとえばフジテレビの問題は、その象徴的な事例かもしれません。社内には、関係者との信頼関係や過去の経緯への配慮があったのだと思います。いわば“社内の空気”が判断を複雑にしていたのでしょう。しかし外から見ると、「なぜ、ここまで問題が大きくなってから動くのか?」「判断できない組織なのでは?」という印象を持たれてしまう。内側の“情”が優先され、外側の“理”が後回しになっていた。そのズレが、結果的に信頼を損なう形になったとも言えます。

あるいは、地方の私立大学の相次ぐ閉校や募集停止のニュースも、ここ数年で急激に増えています。かつては、定員割れが続いても他大学との合併や別法人による継続といった選択肢が模索されていました。しかし今では、比較的あっさりと「撤退」が選ばれるようになってきた印象があります。たしかに赤字経営が続けば、存続は難しい。理屈としてはもっともです。経営危機になってから明らかになる「残したい」という情の面と「続けられない」という理の面。どちらも理解はできますが、それらが交わらないまま決断されていく構造には、少し違和感を覚えます。縮小が明らかな人口構造の中で学生を奪い合うのは現実的に難しく見通しが立たないから、という理由だけで判断する前に、学校が根差しているはずの地域社会への貢献といった視点で見通しが立てられないか、と考えるなど他のやり方・選択肢があったようにも思います。

他にも、トランプ政権下で始まった関税強化政策。選挙結果の公約等を踏まえて強化の動きが見られる中、その効果と副作用が改めて注目されています。アメリカ国内の産業や雇用を守るという「理屈」は明快ですが、実際には多くのアメリカ企業が海外製の部品や原材料に依存しています。そのため、関税の引き上げはサプライチェーンに影響を及ぼし、物価上昇の要因にもなりかねません。政策としては理にかなっているようでいて、構造的な現実と噛み合っていない部分もある。その中で「国内産業を守れ」という情熱と、「グローバル供給網と価格安定の確保」という理屈が、せめぎ合っているように見えます。

どれも、どちらかが正しいのではなく、「両方に言い分がある」状態だったと言えるでしょう。

正しさは本当にひとつなのか?

「選べない」感覚の背景には、“自由がない”というより、“自由に正しさを定義できない”という見えない制約があるのかもしれません。

今の社会には、「正しさはひとつ」という空気感が漂っています。誰かが決めた正しさ、世の中が求める正しさに合わせることが求められ、自分の中の“これが正しいと思う”という感覚が押し殺されがちです。その空気は、意思を弱め、選択の自由を曇らせ、結果的に“立ち止まる人”を増やしているのではないでしょうか。

──正しさは、本当に”ひとつ”なのでしょうか?

制度をつくる人の正しさと、それに従う現場の正しさ。会社全体の戦略と、目の前の仕事を回す人の正しさ。上司と部下、親と子、国と国──。

時間、空間、立場が変われば、「正しさ」は異なります。それを「どちらかが間違っている」と捉えるからこそ、ぶつかる。対立が生まれる。

「正しさ」のかみ合わなさ。私は、これが今の社会に漂う違和感の正体ではないかと考えています。

「情と理」の分離が進んでいないか

かつては「やりたい」という意思と、「やるべき・できる」という理屈が自然と重なっていました。「この仕事をやりたくて入社したから、まず3年はがんばろう」といった具合に、情(Will)と理(Must/Can)が重なっている人が多かったように思います。ところが今、その割合が相対的に減ってきている気がしてなりません。情は弱まり、理もあいまいになったまま、どこかフワッとした「とりあえずの選択」が増え、そのままの状況で進む中で、「これでいいのか?」と迷う場面が多くなっているように思います。

これを、私は「情と理の分離」だと捉えています。

情と理を“統合”するという発想

私たちはよく「感情に流されないように」と言いますが、それは本当に正しいのでしょうか?情は、排除すべきものではありません。気持ちに流されるのではなく、気持ちを受け止めた上で行動する。情を使いこなす、という感覚に近いかもしれません。一方、理はぶつけるものではなく、共有するものです。「自分がこう考える」だけでなく、「あなたはどう思う?」と開き合うことで、初めて理屈が意味を持つ。理だけで「正しさ」を押しつけても、人は動きません。

情にほだされたとしても、いずれは相手に不安や不満の感情を抱きます。だからこそ今、必要なのは「どちらか」ではなく「情と理の両方」だと思っています。

トレードオフから、トレードオンへ

感情に流されない強さも、正論でぶつからない賢さも、どちらかではなく、両方を持ち合わせている人。

そうした人が、今の社会で信頼されるのではないでしょうか。これは「正しさ」を競う時代から、「思い」と「道筋」を重ねる時代への移行だとも言えます。

選択肢が多すぎる時代だからこそ、どちらを選ぶかではなく、どうしたら両方を活かせるかを考える。感情と理屈、意思と納得、WillとMust/Can──。

これらを対立させるのではなく、統合しながら前に進める人。そんな“トレードオン”の感覚を持つ人が、これからの社会に必要なのではないかと思います。

智を共有すれば柱が立つ。情に棹さして前に進む

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」

この言葉は、夏目漱石が「草枕」で表現した一節です。これは「人間が社会で生きていくうえで、理知のみに割り切っていたならばこのことで他人と衝突する。だが他人の感情に気を遣っていてばかりでは、自らの足をすくわれるようになる」(出典:Wikipedia)ということです。まさに“知と情と理のバランス”をどう取るかという本質に触れた表現です。

かつては「情に流されるな、理に従え」という解釈もされてきた時代がありました。しかし、今はその両方をいかに大事にするか。

情は、ただ流すのではなく、棹をさして進む力にするもの。
智は、ただ働かせるのではなく、共有して柱を立てるもの。

私の勝手なイメージで恐縮ですが、「今、これから必要なこと」を夏目漱石風に整理するとこんな感じかなと思います。
「智を共有すれば柱が立つ。情に棹さして前に進む。意思と智を広げれば、道はひらける。」

もう一つ踏み込めば、「情+理=自由」ではなく、「情×理=自由」なのかもしれませんね。どちらかがゼロなら、自由は成立しない。
だからこそ、両方が噛み合う瞬間にこそ、本物の自由が生まれるのだろうと思っています。

もちろん、最初から完璧にできる人なんていません。「今、自分はどちらかに偏っていないか?」と気づけること。そこから少しずつバランスを取り戻していくこと。

それが、滑らかに動ける自分や組織をつくるための第一歩になるのだと思います。