Vol.9_心が動くとき
先日、星野源の6年ぶりの全国アリーナツアーに当選できました。これまで2回落選していたので、3回目にしてようやく、です。
1回目は抽選だったものの応募母数が多すぎて全く当たる気がせずあえなく撃沈。
2回目は専用サイトから午前10時にアクセスして先着順で決まる方式だったので、その10分前にスタンバイ。午前10時になった瞬間にタッチボタンを押して次の画面に遷移したので「いけた!?」って思ったら画面がフリーズ。ほどなくして「ただいま、大変込み合っています」の画面へ・・・・。きっと人力でない力が必要なんだろうな、と本当にがっかりしました(笑)。
3回目は先行販売するアルバムに封入されている抽選応募コード(数量限定)を使って応募する形式。最初はAmazonや楽天で探したのですが、あっさり”Sold Out”していました。それを目の当たりにして、何とかして探そう!という気も起きず、いったん気持ちを引いたままでした。そんな中でもYoutubeやXやInstagramでは新曲のMVやライブを告知するビジュアルがあふれており自然に目にしていました、それが“行きたい”と思わせるスイッチになったのかもしれません。もう1回良く調べてみたらネット以外にも抽選応募コードを入手できる方法があり、しかもそれが筆者の地元の書店でゲットできることがわかりました。デジタルな時代に、そんな“あえてのアナログ”な選択肢を残している、これは何か呼んでいると若干勘違いかもしれませんが、少し心が動いた(ような)自分がいました(笑)。
前置きが長くなりましたが、今回は人は何に惹かれて集まるのかというテーマです。
犬山に人が戻ってきた理由
たとえば、最近再び注目を集めている街・犬山。2023年度には過去最多の来訪者数(約65万人)を記録し、4月12日の毎日新聞では無電柱化や文化体験、SNSとの連動など、華やかではないけれど、共感を呼ぶ仕掛けが積み重ねられてきた結果だと言えそうです。
採用でも似たことが起きている
「人が集まる」という点では、人材採用の世界でも似たような現象があります。制度や報酬は申し分ないのに応募が来ない企業もあれば、知名度はそれほどでなくても人が集まる企業もある。最近では、リファラル採用やカジュアル面談、ダイレクトリクルーティングなど、いろんな工夫が試されているようです。
ただ、それでも「やることやってるけどうまく届かない」「うちは知名度がないから仕方ないのかなぁ」と感じている企業も多いようです。
共通するのは「関わりたくなる何か」
たとえば星野源のライブ。映像やビジュアル、デジタルコミュニケーションだけでなく、書店やCDショップ等とのコラボ。そのひとつひとつが、ファンとして「関わっていたい」と思わせる設計になっていたように感じました。
犬山は、一時期年間19万人まで落ち込みましたが、観光協会によれば、「来訪者のニーズを探り、周辺店舗や地元企業、大学生などが一体となり協力しながら、魅力を高めてきた成果」だといいます。桜や景観だけでなく、無電柱化や文化体験、SNS連携など、日常と地続きの「共感できる場づくり」が積み重ねられていたのです。
採用においても、制度や待遇は申し分ないのに応募が集まらない企業もあれば、規模は小さくても、共感を呼ぶような空気感が漂っている企業には人が集まります。
この3つに共通するのは、「何かが整っているかどうか」ではなく、「関わりたいと思わせる何か」があることです。
それは制度や仕組みではなく、そこに関わる人たちの感情や、共感が積もった“空気”のようなもの。つまり、主観的な価値の重なりがつくり出すものがあるように思います。これを“文化的設計”と定義してみます。
文明と文化──人が動く原理の違い
この“文化的設計”という言葉がピンとこない方もいるかもしれません。そこで、少し違う角度から捉えてみましょう。
これまでご紹介してきた3つの事例で整理してみましょう
事例 | 文明的アプローチ(整える) | 文化的アプローチ(共感) |
---|---|---|
星野源 | 電子チケット制度、ライブ演出 | 世界観、ファン同士のつながり、当選の希少性 |
犬山 | 景観・導線・無電柱化 | 地元協働、SNS拡散、再訪したくなる空気 |
採用 | 給与・制度・媒体宣伝 | 働く人の語り、リアルな空気、共感が積もる場 |
文明的な価値とは“客観的”な評価軸に基づくものです。 便利、安全、高性能、スピード、コスト……良いか悪いかの軸が比較的明確です。それに基づくと文明的アプローチ(文明的整備)とは「条件を整えること」。
一方、文化的な価値は“主観的”なもので構成されます。 「なんとなく好き」「共感できる」「この人たちと働きたい」といった、感じ方の違いそのものが価値になります。すなわち文化的アプローチ(文化的設計)とは「感情を動かすこと」。
条件が整っていても、人が動かないことがあるのは、 人が動く原理が“客観的価値”にではなく、“主観的価値”にあるからかもしれません。人が集まり、定着し、語りたくなる場所には主観的価値がある。それはマーケティングの世界でよく言われる「モノからコトへ」という流れとも重なります。これは物質的な整備(文明)ではなく、体験や共感(文化)に価値を感じる社会へ、私たちの“ものさし”が変わってきた証と言えると思います。 文明的に「与える」から、文化的に「共に感じる」へ。この変化は、マーケティングだけでなく、採用、まちづくり、組織づくりにも共通している気がしませんか?
採用における文化的アプローチ
近年の採用活動では、以下のような文化的なアプローチが注目されています。
- リファラル採用:社員が自然に人を連れてくる仕組み。
- 採用ミートアップ:一方通行の説明会ではなく、互いを知る場。
- ダイレクトリクルーティング:送るのは情報ではなく想い。
これらはすべて、制度の整備(文明)ではなく、共感の設計(文化)で成り立っています。
さらに、リクルートやパーソルなどが発表している採用成功企業の分析では、「採用活動の早期化」や「柔軟な働き方の導入」などの戦術面が多く取り上げられていますが、そこに「文化としての採用設計」という視点を加えると、より本質的な問いが浮かび上がってきます。採用とは、単なる人集めではなく、組織のあり方を外に見せる行為であるとするならば、そこには“共感の循環”が必要になります。では、『相手に届かない』と嘆く前に、そもそも『相手の心に届くように設計しているか?』と問い直す必要があるのではないでしょうか。「犬山が単なるブームで終わらず文化的魅力として再興しはじめているように企業の採用もまた、仕組みや媒体ではなく、組織文化として人を引き寄せていくものに変わっていく必要があるのではないでしょうか。
「文化になりうる兆し」に注目してみませんか
犬山も、星野源も、採用も、共通していたのは “文化になりうる兆し”があったことです。
文明的な装置は、整えば整うほど他と差がなくなります。けれど、文化は「そこにしかない空気」を生み出します。
最後に人が動くのは、“整っている”からではありません。 「ここにいたい」「また関わりたい」と思える“空気”があるかどうかです
おまけ:関西万博に“文化の設計”はあるのか?
25年4月13日から始まった関西万博。チケットは売れ、注目も集まっています。この一大イベントには、良くも悪くも話題がつきません。
- 建設費の高騰
- パビリオンの遅延・断念
- ボランティア待遇問題
- アクセス整備の不安
- SNS上の“行かない宣言”
こうした問題は、制度や整備=文明的領域の問題として見られがちです。しかし本質的には、もっと”文化的な課題”を示唆しているかもしれません。
1970年の大阪万博は、「人類の進歩と調和」というテーマのもと、月の石や未来技術など、“文明の力”を見せる場所として大成功を収めました。
しかし2025年の今、社会の空気はまるで違う。
- 技術のすごさだけでは人は心が躍動しない
- ボランティアに求められるのは「労力」ではなく「共感」
- 会場の整備より、「そこに関わる意味」が問われている
- 「行ってみたい」は、便利さじゃなく“語りたくなる空気”から生まれる
つまり、文化的な設計がなされていないと、人は感動しない時代になっているのではないでしょうか。
今回の関西万博がクリアすべきことは、「1970年の成功体験」を、2025年の感覚にそのまま当てはめようとするのではなく、文化的な“共感設計”をどう反映させるか、という気がしています。今、たくさんの来場者が集まっているように見えますが、チケット販売率は依然低いと聞きます。今は物珍しさや“話題性”が理由で行ってみようということでしょうがそれだけでは一過性にとどまるし、限界が来ます。来場者の心を動かせるかどうか、ここが今後大きな成功に持ち込めるかどうか。関西万博の中に、“文化としての設計”があるのかどうかわかりません。ただし来場者が「そこに関わる意味を実感し、語りたくなる体験」を得られるか。 “語りたくなる空気”がない限り、人の気持ちはそこに残らない気がします。
万博も、企業も、地域も──今、人が集まる場所に共通して必要なのは、 文明の完成度よりも、“文化になりうる兆し”なのかもしれません。
今のところ、私は「万博にぜひ行ってみたい!」という気持ちにはなっていません。
心揺さぶられる機会は、果たして訪れるのでしょうか。
それとも、私の中にもう“感じる力”がなくなってしまっているのか──。