Vol.10_自律のなりすまし
夜9時半を過ぎたある晩のこと。子どもがYouTubeを見ていたので、私はいつものように声をかけました。 「早く寝ないと、明日の朝つらくなるよ」 「そろそろ歯みがきして、寝る準備をしなさい」 子どもはそれに応じて、まるで“スイッチを押されたかのように”寝る準備を始め、10分後には布団に入っていました。
別の日の夜。私が珍しくアマプラの配信番組にハマり、夜9時半を過ぎても見ていたところ、子どもが突然 「もう寝るね」「先に寝てるよ」といって、さっさと行ってしまいました。
どちらも“寝る”という行動に変わりはありません。 ただし、そのきっかけは違います。 前者は私の声かけをきっかけとした行動。後者は、子ども自身の判断での行動。後者の場合、それが「判断」なのか、「習慣として身についたもの」なのか。(ただ単に「眠くなった」生理的現象なのかもしれませんが・・・・)
今回はこの違いやそれらを生む構造について検討を試みます。
意志があるかどうかが、“習慣”と“判断”を分ける
たとえば前者の行動──親の声かけで動いたケースでは、子どもは「自分で判断した」とは思っていないでしょう。 ただ、そこに“迷い”や“葛藤”がなければ、実はストレスもかかりません。 ある意味、「選ばされたことによる安心」がそこにあるともいえます。
一方、後者の行動は自発的に見えます。 けれど、それが“習慣として身についている”からなのか、それとも“自分で判断して切り替えた”のかは見極めが難しいところです。まだ動画を見ていたい気持ちを抑えて「明日があるし、やめておこう」と切り替えたのなら、それは判断だと思います。 一方、単に“いつもこの時間に寝るから”というだけであれば、ルーティン的な行動、つまり習慣に過ぎません。
ここで重要になるのが「意志」の有無です。 行動が自律的かどうかは、その背後に“意志”があるかどうかで見えてきます。
行動の源泉は「誘発や動機」
私たちの行動は、必ず何らかのきっかけ(誘発や動機)によって引き起こされます。これが外部からの刺激(声かけやルール)であれば他律的になりやすく、内部からの動き(気づきや気分の変化)であれば自律的な性質を帯びます。内部誘発の行動には、必ずしも強い意志があるとは限りませんが、意志とは「内部的動機」のひとつの形であるといえます。
つまり、
- 行動は誘発されるものであり、
- 内部的誘発(内部的動機)であれば自律性が高く、
- その中でも、意志が介在していれば“意志ある判断”としての質を持つ
という整理ができます。
判断 × 習慣 × 意志 で分かれる4つの行動構造と自由のかたち
私たちの行動は、「行動のきっかけが外部からか、内部からか」と「その行動に意志があるかどうか」という二軸によって、4つのタイプに分けることができそうです。それぞれの行動には、見た目ではわかりづらい“自由”の質が隠れています。自分たちが取った行動とは、それが選べるかどうか、という単純なものではなく、「どのように選んだか」によって、まったく異なる意味を持つものに整理できます。
以下の図は、その4つの構造を簡潔に示したものです。

自分たちが取った行動とは、外形的に選ぶということではなく、“どう選んだか”の中に宿る
こうしてみると、「自分たちが取った行動」とは単に何かを選んだということではなく、選んだ理由や背景の違いによってそれぞれ“異なる意味合いがある”ということが見えてきます。
どれが正しく、どれが間違いという話ではありません。 けれど、自分がどのタイプの行動を選んでいたのか──そして、選びなおすことができるのか。 その「問い直す力」こそが、自律的な行動を促す鍵になるはずです。
仕事の中にも潜む「選ばされた行動」
こうした構造は、ビジネスの現場にもたくさん転がっています。特にわかりやすいのは「選ばされた行動」。いくつか例を挙げましょう。
「みんなリモートだから」 → 自分で働き方を選んだつもりでも、周りの空気に流されているだけ
「とりあえず企画は通す」 → 上の顔色を読んだ“忖度”にすぎない
「この案件は、〇〇役員が注目してるらしい」 → 本来は顧客や事業性を見るべき判断が、権威への迎合に変わってしまっている
「新人にはこの研修をやっておけばいい」 → 毎年の慣例を繰り返しているだけで、意志や判断はそこには存在しない
これらの行動は、いずれも「自由に見えて単に流されているだけ。本当の意味で選べていない=選びなおしていない」という点で共通しています。
過去の成功パターンや、組織の空気、権威の重力──それらに引っ張られて動いている状態は、 “判断停止”の習慣であり、“選ばされた行動”の中で生きている状態といえるのではないでしょうか。
「疑い力」が、選びなおす行動力を取り戻す第一歩
では、どうすればその状態から抜け出せるのでしょうか。 特別なことは必要ありません。 ただ、「自分はいま、誰の判断でこの行動を選んでいるのか?」と一度立ち止まってみるだけでよいのです。「こうするのが当たり前」「これが正しいとされている」 その背景に、自分の意志が乗っているか? もしくは、納得して判断した上で選びなおしているか?行動をやみくもに変える前に、まず“決め方”を疑う。 それが判断と習慣を見分ける力になり、自由の感覚を取り戻す手がかりになると考えます。
【おまけ】教育的常識へのちいさな問いかけ
ところで、学校から配られるプリントには、よくこう書かれています。
「夜は早く寝ましょう」 「ゲームやタブレットは長時間使わないようにしましょう」
一見まっとうな正論です。でも、ふと立ち止まって考えてみるとどうなのか。まず睡眠時間をしっかりとることは正しい。これならわかります。が、早く寝ることは、誰にとっても“正しい”のか? 夜型のリズムで集中力を発揮できる子もいれば、家族の生活サイクルの中で遅くなることもあります。
タブレットも、使い方次第では創造性を伸ばしたり、学びを深めたりする道具になります。 それでも、「時間で区切る」ことだけが唯一の指導方法なのか。それはもしかすると、知らず知らずのうちに“判断させない教育”になっているのかもしれません。それによって子どもの「考える余白」や「納得する力」を奪うことにつながる可能性。そういえば大小構わず「これでいいのか?」と聞いてくる子供に対して、「そのくらい自分で判断しなさいよ」っていうのが最近の口癖になっていることに気づきました(笑)。そう、”そのくらい”ってその大人自身にしかわからないのです。子供の意志を尊重するボーダーを決めてあげる必要があるかもしれません。
そんなことをつらつらと考えていると、私たち大人自身も “選ばされた行動”に慣れすぎてしまっているなと感じます。だからこそ、いま一度。 「これは自分の意志で選んだことなのか、 それとも選ばされたことなのか?」 その問いを自分の心に問いかけてみたいと思います。